これは、工房を築いた私たちの父、ジョヴァンニ・ルッキの物語である。コントラバス奏者としてイタリア国内外のオーケストラで活躍していたジョヴァンニ・ルッキは、楽弓作家が不足していたことから、30年近くも弓の毛を自分で交換していた。必要に迫られて物事を独習するのは我々イタ
リア人の得意とするところであるが、これもそのうちの一例であろうか。取り巻く環境が与えてくれるチャンスともいえよう。ヴァイオリン製作者オテッロ・ビニャーミについて基礎的な内容は習得したものの、それだけでは楽弓本来の働きを維持するにとどまった。しかし、弓に関して様々な問題を抱えていたのは父ジョヴァンニのみならず、噂を聞いたオーケストラ仲間や友人の音楽家たちが次第に彼に楽弓の調整を依頼するようになり、ほどなく父の名、そして、その才覚と気性がこの道に導くことになる。好奇心に駆り立てら
れたジョヴァンニは、スイスの楽弓作家、ジークフリート・フィンケルの工房を訪ね、木材の扱い方を10日間学び、そこでただのペルナンブーコの用材が音楽を奏でる楽弓に変化していくさまを目の当たりにする。イタリアでは、職人としての技術も学び取るべく、リミニのヴァイオリン製作者、兼、楽弓作家でもあるアルトゥーロ・フラカッシに面会し、自身の最初の作品の出来具合を意気込んで見せた。フラカッシはそれらを好感をもって受け入れ、ジョヴァンニの才能を認めたのだった。まもなく、好奇心は本物の情熱へと形を変える。木材、弓毛、様々なテクニック、そして、そこから生まれてくる数限りない音。使う材料を変えつつ実験を繰り
返し、試行錯誤しつつもそこからまた新たな可能性を見出し、探究心を更に深めていったのだった。
1976年、クレモナに国内初の楽弓製作科が地元の学校に創設され、ジョヴァンニはそこで教鞭をとることになる。こうして、新たな実験や発見、そして、そこから学んだことを広めながら、ジョヴァンニはもはや彼の専門となっていた楽弓製作に専念できるようになった。プロの音楽家としての経験は更にいい音を追求するという研究面にも一役買った。ジョヴァンニは高品質の音に辿りつくためなら何でも試した。ためらうことなく科学の力にも依り、そこから実験の具体的な答えを引き出し、その結果に満足できなければ、既に明らかな事柄についても実験を何度も繰り返した。こうして音響メーターであるLucchiMeterで特許を取り、「美しい音」を奏でる為の倍音を割り出すLucchiSoundを開発した。
もはやマエストロ・ルッキは私達と共にはない。が、彼の人生や仕事に対する哲学、他人への思いやり、素材を選ぶときの厳格さ、そして最高のものを作り上げるためのあくなき精神は彼の楽弓とともに、彼の業績を継いだ我々子供達が引き継いだのだった。